「脱ゆとり」で教育は変わるのか? 「小中の35人学級、来年度から 『脱ゆとり』で文科省 」より

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E0E5E2E6998DE0E5E2EAE0E2E3E29180EAE2E2E2;n_cid=DSGGL001

文部科学省が本格的に、35人学級へ向けて始動しました。今までの40人学級から5人減ということになりますが、現状ではすでに30人学級体制やそれ以下という学校も多いようです。

この40人から35人に変わるということで何のメリットがあるのでしょうか?

この記事から見てみますと、「『脱ゆとり教育』で授業時数や指導内容が増えることなどに対応し、少人数学級できめ細かい指導を行う。」とあります。

ゆとり教育からの反動で、子どもたちに対してしっかり学習させなければならないという流れの中で、より教育の成果をあげようという方策の一つであるようです。

けれども、「人数」の話と「脱ゆとり教育」とはいささか話が食い違っているようにも思います。
一クラスの人数を変えることで脱ゆとり教育に対応しようというのは的外れのような気がしてならないのです。
極端に話すと、やり方一つで40人学級でも脱ゆとり教育の成果は向上するでしょうし、35人にしようと、30人学級にしようと脱ゆとり教育への解決にはならないということも往々にして言えます。

このことについて、同記事の最後に京都教育大大学院の教授も言っていますが、教育の柔軟性も現場に求められてきます。

けれどもそれ以上に重要なのは、教師の質です。

教師の質とはどんなことでしょうか? それは子どもの学習能力を向上させる手助けをする力だけでなく、子どもの全的成長を促す事ができる資質です。勉強だけが上手にできるようになる子どもを作るためには、塾で十分なのです。学校の存在など必要ありません。
けれども、先生たちは勉強の他に、一緒に遊び、生活習慣の模範となり、社会的規範の柱となります。

つまり、教師の質とは、 どれだけ子どもたちが社会に出たときに立派な大人として歩むことができるか、ということを真剣に考え、またそれに対するスキルを持ち得ているということです。

言い換えるならば、そのような資質が教師に備わっていなければ、また教育全体が備わっていなければ、35人学級や、ゆとり教育などと言っても全く効果は期待できないのです。

一つの学級の人数を小さくするということ自体は大変いいことだと思います。先生も目が届きやすいし、子どもたちも友達とのより深い関係づくりが期待されます。また、脱ゆとり教育として子どもたちにしっかり勉強を学ばせることも重要です。

一つ一つは重要であり、やるべきことなのですが、もっと根本的な、学校教育に対する、また教育全体に対する議論を深めていく必要があるのではないかと感じさせられます。

現在、団塊の世代の多くが退職を迎えています。記事に書かれているように、14年度からの5年間で4万人の教職員を増やす計画を打ち出しています。そのような中で、新しい先生たちの期待は大きくなるとともに、どのような教師が教壇に立つのかという不安も少なからずあります。今後、教師になろうとしている学生たち、社会人たちの教育力を上げることは必至ですし、それをサポートできる学校組織の柔軟性も必要です。

教育の問題というのは一朝一夕で解決するようなものでは当然ありませんが、子どもたちは日々成長していくということをしっかり踏まえて真剣に考える必要があるのではないかと思わされます。

育児の責任性を考える。「ゴミの山、寄り添い倒れていた姉弟 大阪・2児置き去り」より

http://www.asahi.com/national/update/0822/OSK201008210202.html

非常に痛ましい事件です。
お母さんが二人の子どもの育児放棄をして、結局死に至らせてしまいました。

二人の子どもたちは寄り添うようにして裸で倒れ、ミイラ化しているのを発見されたということです。

子どもたちはどんなにかお腹がすいて、お母さんが恋しくて、でも、姉弟で励まし合って、いつかお母さんが帰ってくる、いつかご飯が食べられると願いながらも・・・無念でならないとしか言いようがありません。

このお母さんは、じぶんの子どものことをどのように考えていたのでしょうか?

お腹を痛めて産んだ子どもに対する愛情はどこへ行ってしまったのでしょうか?

お母さんは何か解決する行動をとることはできなかったのでしょうか?

このようなお母さんに対する疑問は尽きません。

けれども、どんなにお母さんに対して叱責をしたとしても、罪の償いをしたとしても、亡くなってしまった子どもたちは帰ってくることはありません。

ですから、私たちはこのような痛ましい事件に対して、「悲しい」「残念」という感情を持つだけでなく、これ以上このような事件を再び起こさないように考えなければならないのです。

少し客観的に考えてみましょう。

このお母さんのしてしまったことは、子どもの育児放棄、つまりお母さんが子どもを育てるという責任を投げ出してしまったのです。この時点で、お母さんは責められるべきです。

けれども、この事件の報道でいくつか言われている興味深いことは、お母さんの生育歴です。

高校の教師の娘に生まれ、父親(無くなった二人の子どものおじいさん)はラグビー部の顧問として非常に熱心でした。その傍らで、このお母さんはお父さんとの関係をほとんど持たずして育ったと言われています。また、このお父さんの妻、つまりお母さんの「お母さん」は離婚していたということです。ということは、このお母さんは、両親の愛情をほとんど受けずに育ったと言えるのかもしれません。別の言葉で言うと、このお父さんも育児放棄に近いことをしていたのではないでしょうか。ちなみにこの加害者であるお母さんもご主人と離婚をしています。

このようなことを考えると、育児の責任という視点で見ると、お父さんの仕事の状況、そしてこのお母さんの状況というのはあまり変わらないのかもしれません。言い換えると、育児放棄の連鎖です。

しかし、ここでなぜこんなに結果が違うのでしょうか? お父さんは育児放棄をしていたとしても、このお母さんは生きて、大人になることができました。一方で、お母さんの二人の子どもたちは最終的には死んでしまったのです。

この違いを表す最も重要な言葉として、「サポート」という言葉が挙げられるのではないでしょうか?

昔は地域の人達やおじいちゃんおばあちゃんとの同居、兄弟姉妹の人数、そして友達同士のつながりなどから、人のサポートは受けやすかったのです。今は核家族に加えて、コミュニケーションの多様化などから、直接人と人とのつながりが薄い社会になってしまっています。また、自分の責任は自分で取る。もし、責任が取れない場合は別に取らなくて良い、といった社会です。このような世代の人々が、お互いを真摯にサポートするということは非常に難しくなりました。

特に育児の場合を考えると、この影響は大きいと思います。

単純に考えて、母親がひとりで育児をするということは、非常に大変なことです。家事をしながら子どもの面倒を見て、そして経済的自立のために仕事をする。ひとりでこのようなことをしなければならないのはある意味で不可能です。

でも、加害者のお母さんはこのような状況だったのです。育児、仕事の環境、家事、時間、体力、ストレス・・・このようなことにプラスして、何のサポートも周りから得られないとなると、責任をもって育児をすることなどできません。事件は起こるべくして起こったとしか言いようがないのです。

仕事の責任が取れないと、クビにされます。家事ができないと、家がめちゃめちゃになります。でも、育児ができないと、子どもの生命にかかわるのです。他の事柄は生命とは直接関係がないのです。

私たちは、育児に対してどのくらい責任をもっているでしょうか? 子どもの命、子どもの将来をどのくらい考えているでしょうか?

自分たちの人生は、自分たちでどうにかなります。けれども、子どもの人生は子どもひとりではどうにもならないのです。

このような辛い事件を繰り返さないためにも、私たちは、未来の子どものために、もう少し真剣に考える必要があるのかもしれません。

夏休みの自由研究はお父さんの大活躍!

もうすぐ夏休みが終わろうとしています。

小学生の夏休みといえば、自由研究です。

ある子どもたちは、夏休みが始まったらすぐに宿題にとりかかって、余裕しゃくしゃくで夏休みを過ごしています。けれども一方で、あと数日で夏休みが終わってしまうと焦っている子どもたちも多いと思います。そのような子どもは夏休みの期間、思う存分遊んでいたので、頭のエンジンがかかっておらず、何をどうすればいいのか良いアイデアが思い浮かびません。でも、そんな時こそ、ふだん子どもたちと接することのできないお父さんの出番です。「しっかたないなぁー」とまんざらでもなさそうに子どものために一肌脱いであげるといいですね。

と言っても、お父さんは毎日自由研究をしているわけではありません。すぐにアイデアが浮かんで「これをしよう!」と子どもにアドバイスをかけることも難しいです。そんな時は、ネットで探してみると、簡単に見つかります。

例えば、キッズ@nifty (http://kids.nifty.com/)や、Yahoo!きっず(http://kids.yahoo.co.jp/)などを見てみると、子どもと楽しみながら簡単にできる自由研究の例がいっぱいあります。

自由研究をする際に重要なのは、もちろん有意義な研究(工作?)をすること、ですが、それとともに、自由研究を通して子どもとの時間を共有することではないでしょうか。
普段見ることの少ないお父さんの頑張る姿を目の当たりにすることで、お父さんに対する尊敬が生まれるだけでなく、子ども自身も一生懸命に頑張ろうというモチベーションが生まれます。
決してカッコいい姿ばかりでなくても構いません。時には失敗したり、イライラしたり、間違って釘ではなく手をトンカチで叩いてしまう姿も、子どもにとっては貴重なお父さん像を作り上げる糧となるのです。

残り少ない夏休みの期間、子どもと一緒に頑張ってみませんか?

と言っても、お父さんが子どもの自由研究を全部やってしまったら、元も子もないので、アドバイス程度で・・・

子育てに必要なのは時間か?それとも質か?

お父さん、子どもとの時間はしっかりとっていますか?

少し古い調査の記録ですが、平成17年の「家庭教育に関する国際比較調査」では、父親が平日に子どもと過ごす時間は1日あたり3.1時間という結果が出ています。

一日24時間のうち、睡眠が約6時間、仕事が実質通勤などを含めると12時間、食事が30分x3の1時間半・・・などと考えると、子どもといる時間が3.1時間になってしまうのも無理はありません。

実際、普段忙しく働いているお父さんからしてみると、子どもとの時間はしっかりとってあげたいけれど、現実は難しいという人が多いのではないでしょうか? 僕自身も現在、家族との時間や子どもたちとの時間ほど重要だと分かっていながら、そのために時間を割いてあげられないという現状に四苦八苦しています。

親である以上、子どもとの時間を意識して作ってあげることは言うまでもなく重要なことです。

一方で、最近良く聞かれる言葉があります。それは「子どもとの時間よりも質だ」という意見です。

これは、たとえ3.1時間であっても充実した時間を過ごすことができたらそれで十分ではないかという主張です。言い換えるならば、3.1時間という時間を無駄に使っていたら意味が無いということでしょうか。

この意見はある意味で非常に納得させられるものがあります。私たちは、子どものために週に何時間取っているかなどと考えることはあまりしません。ですから数時間でも父親が意識して子どもとの時間を作ろうと考えることは非常に素晴らしいことです。そして、その時間を子どものために費やすという姿勢は学ばされるものです。

考えてみると、1日に3.1時間という時間は果たして短いか?と思わされます。24時間のうちの3.1時間を子どものため「だけ」に費やすことができたら非常に素晴らしいことです。しかし、ここでの調査はそのようなことを意味しているのではないと思わされます。この時間には、一緒に食事をしている時間、移動時間、テレビをみる時間など、決して子どものためにだけ集中している時間ではないのです。そういう意味で考えると、子どもとの時間の質というのはよくよく意識していかなければならないと思わされます。

以前、ある会社の社長は子どもとの時間を必ず毎週2時間取ることにして、その時間はしっかり子どものために集中するという記事を読みました。会社の社長という役職ですから毎日分刻みのスケジュールで動いている人でしょう。誰かと会うということひとつとっても15分や20分という時間は貴重な時間に違いありません。そのような人が子どものために一週間に2時間という時間を割くということは決して容易なことではないと思います。けれども子どもとの時間の重要性を感じて、忙しい中においても実行し続けるということは、私たちが見習わなければならないことかもしれません。

けれども、子どもを時間と質だけで考えていいのだろうか? という疑問が私の中にあります。もちろん、小学生や中学生になったら時間で考えても良いと思います。子どもの予定、そして親の予定に合わせて有意義な時間を使う必要があります。そしてその時間をどう使うかという質を問うことも重要です。

しかし、もともと子どもは時間に縛られない存在です。赤ちゃんを考えてみてください。赤ちゃんは時間通りにミルクを与えられたとしても(ある親はそのようにしていますし、大変評価できる方法だと思います)、時間通りにおむつを替えて欲しいわけではないのです。疲れたら泣き、お腹が空いたら泣き、眠くなったら泣くのです。
もし、忙しいお父さんが赤ちゃんとの時間を2時間と区切ってその間だけしっかり面倒を見たとしても、果たしてそれで十分でしょうか?

赤ちゃんと小中学生と比較させては極端すぎると思うかもしれませんが、結局は同じことだと思います。
重要なのは、「子どもは常に親に対するニーズ」があるということなのです。

小中学生だって、お父さんと一緒にいたいと思うのです。それ以上に「いる必要がある」のです。

逆にいうと、中学生が「お父さんは嫌・・・」というのは、お父さんがその子との時間を過ごすことのできなかった「結果」でしかないのです。

子どもは父親の背中を見て育つとよくいったものです。父親は子どもにとってのお手本なのです。そのお手本が一週間に2時間だけだったら、子どもはほとんど何も学ぶことはできませんし、一日に3.1時間だとしても、一緒にテレビを見ているだけの時間では子どもはお父さんから何も学ばないのです。

欲張りなことかもしれませんが、子どもにとってはお父さんとの「質の高い、長い時間」が必要なのです。

そのことのために、お父さんはどのようなことができるでしょうか?